庭とり
たべるとくらしの研究所の安斎さんからメッセージが届きました。「緊急連絡! 養鶏場廃業のため、2000羽殺処分。欲しい方に譲っているらしい!」と。北海道の日本海側、奥尻島を眺めるせたな町で、オーガニック飼料で飼育されていた鶏が、殺処分されるというのです。まだまだ卵を生む鶏たちです。
たべるとくらしの研究所の安斎さんからメッセージが届きました。「緊急連絡! 養鶏場廃業のため、2000羽殺処分。欲しい方に譲っているらしい!」と。北海道の日本海側、奥尻島を眺めるせたな町で、オーガニック飼料で飼育されていた鶏が、殺処分されるというのです。まだまだ卵を生む鶏たちです。
庭しんぶんの5月号のテーマは「ともだち」です。ともだちについて考え始めた編集部は、それぞれ「ともだちって?」といろんな人にインタビューをしていくなかで、このテーマは「難しい!」ってことに直面し右往左往しています。「ともだち」と「知り合い」の違いって? いや、そもそも「ともだち」にも深い浅いがあるし、人によって捉え方や感じ方、求めているものが違ったりします。ともだちほしい? ともだち探してる? とか、いろいろな問いを立てて考えていきます。こんな時は、ともかく考え続ける。あとは、何となく思いついた本や近くにある本を手にとってみる。すると、不思議とそこに答えが書いてあったり…、直感なのか、必然なのか……。 庭しんぶんは次号で45号です。毎号、ぼくたちの、庭ビルのここにある「いま」を、こどもと分かち合いたい「いま」を詰め込みたいなと。4月って忙しさに飲み込まれちゃいそうになるんですけどね……。いまに踏みとどまる力をつけたいものです。そして、そろそろ種まきしないとね!
春分がやってきました。ぼくは、地球暦というカレンダーが好きで、毎年使っています。地球暦は、春分から始まるカレンダーです。時間は直線はなく、螺旋で捉えたほうがいい。そのことを教えてくれる暦です。ぼくたちは、物理的にも太陽の周りを回っていますし、時間というのは、今自分が宇宙のどこにいるかという場所を知るための概念です(あ、なんかとっても説明不足)。それに、時間って、螺旋で考えるととってもよく理解できるんですよ。 春が迫ってきてます。雪がどんどん溶けています。水が大地を駆け巡ってる。ついこの前まで、厳しい冬がやってくるなぁと思っていたのですが、気がついたらもう過ぎていきました。もう春。雪が溶けて、ふきのとうが顔をだしてます。そして、もう少しするとクロッカスなんかが出てくるでしょう。大地から生命力がグイグイ芽吹いてくる感じ。そのエネルギーを既に感じる季節になってしまいました。その植物が育つという力を使って、ぼくたちは、野菜や穀物を育てます。ええ、つまらない前置きはさておき、そうなんです。そろそろ畑の計画を立てなくてはなりません(汗)。 今年は、すこし不思議な実験をする気がしています。庭の畑では、昨年に種を蒔いてあるライ麦が育っています。それ以外は、ハーブ類を中心に自分たちが生きていくために必要なものを栽培しながら、搾取するのではなく、小さな循環を意識しながら、野菜や穀類を栽培してみます。たぶん、耕さず、肥料を入れない方法に挑戦することになりそうです。有機栽培じゃなくて、自然農法の方向で。この違いはいつか説明しますね。 そのためには、そこにある場所、そこにある土、そこに住む微生物たち、そこに関わる人間……。そういう環境の土台に少しずつ作っていく作業になります。ということで、納屋を3歳の娘と一緒に掃除しています。納屋の2階に文庫とワークスペースを作るのが今の夢。こどもと一緒にいまを生きる。それがとても楽しいなぁ。
あそぶってなんだろう? なんてことを考えることがあります。考えてないで、遊んだらいいのだと思うのですが、「ねぇ、あそぼうよー」という息子の誘いを断ってまで、考えていたりします(反省)。遊びは人を育てます。これ本当だなぁと、最近ようやくわかるようになってきました。身体を作るのも遊びを通して、身体を動かして発達していきます。心も遊びを通して、たくさん動かして、大きく育っていきます。感覚もそう。たくさん感覚を味わったり広げたりすることで、感じる力が育っていきます。その大元にあるのが「遊び」です。自分自身を育てる。自分自身を見つける。そういうプロセスが遊びには含まれている気がするのです。大人もそう。遊んでないと、自分を見失う。仕事じゃなくて趣味に没頭した方がいい、とかそういう話ではなくて、自分から心を動かしたくなるものに触れ続けるってことでしょうか。つい昨日、ある方と話していて「ふるえるほど好なものある?それがさーだいじなんだよ」といってました。そう、ふるえるほど好きって、遊びの源なのかもしれなません。 2月も終わりに近づき、3月です。震災から10年。いま、ぼくたちはどこに向かおうとしているのでしょうか。春がきて、庭づくりがはじまります。
雪が少ない。が、そろそろ、納屋に置いてあるじゃがいもたちを、凍らない場所に移動してやらねばいけない。凍ってしまうと味が落ちる。わかっていても、師走。仕事に追われて、保存が後回しになってしまうのです。ただ、たとい保存に失敗したとしても、いつでもどこでも食べ物が手に入る状態はありがたい(笑)。
文字をつくってきた人たちのことを想像してみよう。どうして、絵ではなく文字として言葉やイメージを残そうとしたのか。「これはね、こういう意味でね」なんていうやりとりを積み重ねてきたのだろうか。みただけで誰もがわかるような身体性の高いものから、次第に抽象性の高い記号化した線になっていったのだろうか。文字を発明するという欲望/欲求の源はどこにあったのか。文字がない世界は、どのような世界だったのだろうか。 いま、ぼくたちの周りには記号(文字)があふれている。今書いているのも日本語という文字である。文字のことを考える時に思い起こすのは、『パイドロス』にでてくる、エジプトの発明の神トートが文字を発明したときの逸話だ。うる覚えだから、もう一度あとで本を引っ張り出して読み直してみたいが、いま記憶に残っているものは、話した瞬間に消えてしまう言葉ではなく、文字によって残ることによって、知恵や記憶が蓄積される大発明だというトート。それに対して、神の王アモンが文字は記憶を奪い、うわべだけの知恵をつくり、忘却を生み出す。という話(ソクラテスの考えていたことって相変わらず面白い)。庭しんぶんを読み返している時に、ふと、これは誰が書いた文章なのかわからなくなることがある。ぼくが自分で書いたのは確かなんだが、自分から出てきた言葉なのかどうか。必ずしも、文字を書いた本人とその文字の内容が、符号するというわけでもなかろう。文字の持つ意味も、書いた本人も時間の経過と共に変わりうる。そして、時間によって変容しないものもあるだろう。 文字を発明する。モノ/物体は名称を取り決めればいい。だが、自分の中にある、この気持ちや考えには、どういう言葉を与えればいいのか。文字にしたとて、そこには落とし込めない余白を埋めることはできない。ただ、いま自分の中にあるものを文字に記録するという作業自体は、ぼくたち人間にとって、退屈を凌ぐための壮大な遊びなのかもしれない。 言葉をつくり、それを文字として記録する。その意味をもう少し考えてみよう。
今月の庭キッチン。9月いっぱいでやぎやは小別沢の山へ帰り、10月13日(火)に、「鐘(ベル)」がオープンします。営業日は、火・水・金の11:00ー17:00。珈琲や紅茶を中心に、ランチが食べられる予定です。
さて、次に取り組む特集のテーマは、「性の話」です。今年の1月に「からだ」についての特集を書いたときに、今年中に性について取り上げる予告をしていたのです。