文字をつくってきた人たちのことを想像してみよう。
どうして、絵ではなく文字として言葉やイメージを残そうとしたのか。
「これはね、こういう意味でね」なんていうやりとりを積み重ねてきたのだろうか。みただけで誰もがわかるような身体性の高いものから、次第に抽象性の高い記号化した線になっていったのだろうか。文字を発明するという欲望/欲求の源はどこにあったのか。
文字がない世界は、どのような世界だったのだろうか。
いま、ぼくたちの周りには記号(文字)があふれている。
今書いているのも日本語という文字である。
文字のことを考える時に思い起こすのは、『パイドロス』にでてくる、エジプトの発明の神トートが文字を発明したときの逸話だ。
うる覚えだから、もう一度あとで本を引っ張り出して読み直してみたいが、いま記憶に残っているものは、話した瞬間に消えてしまう言葉ではなく、文字によって残ることによって、知恵や記憶が蓄積される大発明だというトート。それに対して、神の王アモンが文字は記憶を奪い、うわべだけの知恵をつくり、忘却を生み出す。という話(ソクラテスの考えていたことって相変わらず面白い)。
庭しんぶんを読み返している時に、ふと、これは誰が書いた文章なのかわからなくなることがある。ぼくが自分で書いたのは確かなんだが、自分から出てきた言葉なのかどうか。
必ずしも、文字を書いた本人とその文字の内容が、符号するというわけでもなかろう。文字の持つ意味も、書いた本人も時間の経過と共に変わりうる。そして、時間によって変容しないものもあるだろう。
文字を発明する。モノ/物体は名称を取り決めればいい。だが、自分の中にある、この気持ちや考えには、どういう言葉を与えればいいのか。文字にしたとて、そこには落とし込めない余白を埋めることはできない。ただ、いま自分の中にあるものを文字に記録するという作業自体は、ぼくたち人間にとって、退屈を凌ぐための壮大な遊びなのかもしれない。
言葉をつくり、それを文字として記録する。その意味をもう少し考えてみよう。