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こどもと世界をわかちあう
私たちは、こどもと大人に向けて毎月新聞を発行しています。私はかつて、それはそれはとても小さなこどもでした。両親や身近な大人の助けを借りて、失敗を重ねながら果敢に世界を味わい、この社会で生きていく方法を身につけてきました。そして、今はすっかり大人になりました。こどもを育てるようになって、私はこどもの心をどこかに置きっぱなしにして大人になろうとしていたことに気がつきました。
目の前のこどもの気持ちがわからない。今これから世界を味わい、たくさん失敗して成長していくこどもに、失敗しないように世話を焼いたり、遊び心を挫いてしまったり、ついつい、大人っぽいことばかりを言い聞かせています。かつては自分も小さなこどもだったはずなのに!
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Editor's Diary
庭しんぶん編集部の日記
文字がなかったら
By ふじたすすむ
文字をつくってきた人たちのことを想像してみよう。どうして、絵ではなく文字として言葉やイメージを残そうとしたのか。「これはね、こういう意味でね」なんていうやりとりを積み重ねてきたのだろうか。みただけで誰もがわかるような身体性の高いものから、次第に抽象性の高い記号化した線になっていったのだろうか。文字を発明するという欲望/欲求の源はどこにあったのか。文字がない世界は、どのような世界だったのだろうか。 いま、ぼくたちの周りには記号(文字)があふれている。今書いているのも日本語という文字である。文字のことを考える時に思い起こすのは、『パイドロス』にでてくる、エジプトの発明の神トートが文字を発明したときの逸話だ。うる覚えだから、もう一度あとで本を引っ張り出して読み直してみたいが、いま記憶に残っているものは、話した瞬間に消えてしまう言葉ではなく、文字によって残ることによって、知恵や記憶が蓄積される大発明だというトート。それに対して、神の王アモンが文字は記憶を奪い、うわべだけの知恵をつくり、忘却を生み出す。という話(ソクラテスの考えていたことって相変わらず面白い)。庭しんぶんを読み返している時に、ふと、これは誰が書いた文章なのかわからなくなることがある。ぼくが自分で書いたのは確かなんだが、自分から出てきた言葉なのかどうか。必ずしも、文字を書いた本人とその文字の内容が、符号するというわけでもなかろう。文字の持つ意味も、書いた本人も時間の経過と共に変わりうる。そして、時間によって変容しないものもあるだろう。 文字を発明する。モノ/物体は名称を取り決めればいい。だが、自分の中にある、この気持ちや考えには、どういう言葉を与えればいいのか。文字にしたとて、そこには落とし込めない余白を埋めることはできない。ただ、いま自分の中にあるものを文字に記録するという作業自体は、ぼくたち人間にとって、退屈を凌ぐための壮大な遊びなのかもしれない。 言葉をつくり、それを文字として記録する。その意味をもう少し考えてみよう。