観察するってことはさ。

森を歩いていて、道端にひっくり返って死んでいるカミキリムシを見つけた。なかなか入ることのできない森だったので、「ここに住む住人はどんな模様なのか」と表側を見ようと手を伸ばした。そのとたん、一緒に歩いていたミーナちゃんに怒られた。「死んだ虫は、病気で死んだのかもしれないから、触っちゃだめなの」とのこと。「そうかそうか、ごめんごめん」と謝る。虫の死因で病死なんて考えたこともなかった。彼女は、僕よりもこの森のことをよく知っているし、僕が虫に対して礼儀知らずだったのかもれないな、と思いながら歩き続ける。
また、しばらく行くと、今度は1匹のカエルに出会った。今度は生きてる。そして、これまた普段出会うことのないカエルだったので、一応彼女に気を使い、触らずに見とれていたら、ミーナちゃんも一緒にみている。4、5歳の人なら、カエルをみたら捕まえたくなるだろうに、触れもせずに見ているだけなので、何か触っちゃいけない理由があるのかと聞いてみたのだった。すると、今度は「カエルが驚いちゃうから、触っちゃダメ」なんだそうな。ほほう、カエルに親切だ。
カエルに親切な小さな人に出会うのはとてもとても珍しい。大概、追い回して捕まえて、手の中に入れたくなるものだ。それなのに、触りもしないで満足げに見つめているだけなんて……。一体、ミーナちゃんって、森の生き物たちとどういう関係を結んでいるのだろう?
彼女に聞いてみた。答えは簡単。森の生き物たちは全て「森からの宝物」なのだそうな。頭の中でピーンと線がつながる。これ以上はくどいので書きたくないのだが、あえて文字を重ねると、森の中の住人は、生命をもって、そこに存在してるってこと。「いのち」と「いのち」の間に対等な関係を結ぼうとしているのだ。僕はひどく感心した。僕より1/7しか生きてない人はやっぱり違う。いのちをビンビン感じてる。
小さな生き物を上から見下して、興味本位で捕まえて、手のひらで観察をする。おおよそ、観察というときには、彼らが住む自然環境から隔離した人工的な環境へ押し込めて、そこで眺めるわけだが、そこに対等な関係なんてどこにもない。少なくとも、観察をしたいなら、本来、森にいて森で過ごしている彼らなのだから、捕えることなどせずに「森での過ごし方」を見るのが本来の姿に出会えるはずである。

観察するってことはさ、目の前のいのちと対等に向き合うってことなんじゃないかと気づいたんですわ。生命への好奇心。これがないと観察は、「端から命を眺める」見世物小屋に過ぎない。

そうそう、観察するってことはさ……。